(以前発行されたパンフレットより)
小塚山真敬寺の由緒
小塚山真敬寺の開基は玄宿である。玄宿が道場を開創したのは、室町時代末期の天文十六年(一五四七)のことで、今から四百五十年前である。
玄宿が道場を開創したところは、旧広瀬舘村祖谷の宮地といわれている。古くは祖谷から舘村に通ずる道を、舘村道と呼んでいた。舘村道のやや祖谷よりに西宮地という地名があり、このあたりに道場が開創されたものと伝えられている。現在この地に立ってみると、西に舘村、北東に竹内方面を見渡すことができる。そこには地蔵堂があり三体のお地蔵さんが安置され、真敬寺の寺跡を静かにお守りされている。
真敬寺の開基について、当寺旧記には次のように記述されている。
私寺先代ハ越前和田本覚寺末学ニ御座候。其故ハ先開闢ノ時代ハ証如上人御代ニシテ天文十六年玄宿 ト申僧只今ノ祖谷村ノ領内宮地ト申処ニテ一宇ヲ建立仕同年七月二十八日ニ始テ本尊御免被遊候・・・。寺建立仕候テ後ハ本覚寺殿 下ニ罷成申候。夫故右開基本尊ノ御裏ニハ和田本覚寺下願主玄宿ト御筆被遊候。
これによると、開基玄宿は、越前和田本覚寺の末寺として、本願寺十世証如のころに真敬寺を開創したのである。これより真敬寺は和田本覚寺下にあって其の歴史を歩み始めた。
越前和田本覚寺は、福井県永平寺町東古市の清流九頭竜川の辺り津室ヶ丘上にある。本覚寺史には、和田本覚寺は鎌倉時代の終わりごろ、親性によって福井県の足羽川のほとりに念仏の道場を創建したのがその始まりとされている。そして長きに渡る活発な布教活動により、越前から加賀越中にかけて多くの末寺、道場、門徒衆を持つ大坊となっていった。富山県では、永正年中から天文年中にかけ五ヶ山地方を中心にいくつもの道場がひらかれた。真敬寺の開創も天文年中であり、ちょうどこのころに当たる。
天正年中(一五八〇ころ)当寺二代正真の時に、夜盗が押し入るという不測の出来事が起こった。この時窮状を救ったのが、小塚仁右衛門(当寺三代玄祐)と伝えられている。このころ越中は、信長方の佐々成政によって守備されていた。成政の家中に、七百石扶持の黒川又左衛門と嫁兼小丸城主の小塚弥太郎という郷士がいた。戦国の世で主君成政が敗軍すると、その臣下であった黒川又左衛門、小塚弥太郎は、それぞれ故郷を離れ不安な中で浪々の身を送らねばならなかった。
小塚弥太郎には仁右衛門という息子がいた。小塚父子は教如上人が北陸へ下向された折り深く仏門に帰依し、何かと上人のお世話をしながら布教のお伴をしたという。このことが教如上人と弥太郎父子とのご縁になったのである。一方、黒川又左衛門は、仏門に入り金沢光専寺の四代住持となり法名を慶珍と改めていた。慶珍は親しい仲の弥太郎父子の身を案じ、息子の仁右衛門を自坊に招き入れ法名を覚祐とした。
そのころ、当寺二代正真が世を去っていたので、慶珍は玄宿の寺存続を憂い、覚祐を婿養子に取り計らったのである。覚祐は法名を玄祐と改め、真敬寺の三代住持となり寺の再建につとめた。
寛文四年(一六六四)真敬寺の寺号公称が許可された。当寺が祖谷から竹内へ移転したのもこのころである。山号小塚山は弥太郎父子、宮地の姓は開創の地にちなんでそれぞれ呼称されているものである。
竹内に移住して以来、門信徒の念願であった御堂が元禄七年(一六九四)再築されたと伝えられている。その後この御堂は明治十五年(一八八二)本堂再築の折り福野町円成寺へ移築された。彫刻欄間は今も元禄時代のまま円成寺に残されており、その美しさには当時の隆盛が偲ばれる。
十三代義天は、東本願寺講師として各地を布教し念仏相続に尽くした。幼い頃より読書を好み、記憶力抜群であった。十七歳の時、京都東本願寺で得道、それから高倉学寮に入って宗学を研究した。天竜寺の環仲師に天文学を、智積院の竜謙、義観の二師に経論を学んだ。明治二年に東本願寺厳如上人から擬講を申し付けられ、全国へ布教に出向いた。明治二十二年四月十七日、六十三歳で命終し、このとき本山より真宗大谷派講師を拝命した。
十六代義亮は、京都帝大を卒業し、以来寺役に従事し時には福野高校教諭、福光図書館長、福光中央公民館長、などの要職を務めた。晩年は、大谷派宗議会議員参務(教学局長)の任に当たり、後に城端別院輪番となった。
真敬寺が祖谷にあった頃の堂宇、建物の様子、竹内へ移転した時の史料も乏しく、その全容は把握しにくいことが多い。
今、改めて四百五十年の歴史をかえりみると、祖先の偉業と念仏の歩みが私たちの心に深く刻まれてくる。
本尊
阿弥陀如来像
本堂
明治十五年(一八八二)十三代義天の時再築された。棟梁松井角平
教如上人御消息
当寺、三代玄祐(小塚仁右衛門)が、父小塚弥太郎死去に際しその志として、かつまた世上逆乱の折、御本山へ志納する者が少なく、お台所が御難儀であることを知り、黄金五両を本山へ差し上げた。
教如上人は奇特に思われ、御請け取りの真筆の御手紙を、お下しになった。その中でくり返し念仏を勧められておられる。当寺では今も寺宝「黄金五両の御消息」として正月の初御講に読み伝えられている。
本文 小塚仁右衛門殿 教如
就 小塚弥太郎往生の志として黄金五両到来候 ありがたくおぼゆ候 まことに人間は老少不定のならひにて間ははやく雑行雑修をすて一心に弥陀に帰する心の疑いなければかならず極楽に往生すべき事さらさら疑いあるまじく、かようにやすくたすけ給ふ事のうれしさありがたさよとおもひて念仏申され候べく候 あいかまえて油断なくたしなみ申さるべく候 あなかしこあなかしこ
五月二十五日 教如花押
小塚仁右衛門殿
聖徳太子像
仏師春日の作として太子二歳の木像三代玄祐より伝わる。
鐘楼
昭和十五年(一九四〇)に再築された。
設計は南保新四郎
鐘は昭和二十二年(一九四七)再鋳。
越中治工 金森太蔵作
宮地義天の碑
碑文は、越中の学者石崎謙師の撰、文字は加賀の書家北方蒙師の筆であり、義天講師を顕彰して明治二十四年三回忌に建立された。
経蔵
明治初年十三代義天の時に経本を収めるために造られた。堂内には伝大師と二童子(普建と普成)の像が安置されている。
伝大師と
二童子
嫁兼小丸城跡
嫁兼小丸城は、三代玄祐の父小塚弥太郎の居城である。明応四年(一五四三)のころ武将小塚又左衛門、小塚弥太郎が築城した。嫁兼村の西方、小矢部川に面した高台地で面積八千平方㍍、城の周囲に堀をめぐらし、その水路は打尾川より取り入れていた。元亀の頃、上杉謙信の攻撃を受けたことがあった。この城はその後佐々成政の配下となるが、天正十三年佐々成政は前田利家に敗退した。小塚弥太郎は盟友黒川又左衛門と共に浪々の身となり、その後小丸城は大雨や洪水の災害により次第に荒廃していったと伝えられている。
【年表】
西暦 和暦 歴史事項
一一九〇 建久 元 本覚寺創建
一四七一 文明 三 蓮如が吉崎に坊舎を建立
一四七四 文明 六 文明の一揆 加賀
一四八八 長享 二 長享の一揆 加賀
一五〇六 永正 三 永正の一揆 加賀 本覚寺本拠を加賀に移す
一五三一 享禄 四 加賀 超本両寺体制になる
一五四六 天文一五 金沢尾山御坊が完成
一五四七 天文一六 祖谷宮地野に一宇を建立
本尊御免七月二十八日
本願寺釈証如御判
越前国和田本覚寺下 願主 玄宿
一五五四 天文二三 随力坊釋玄宿没(初代)
一五七九 天正 七 信長の命により佐々成政入越 河上四十八塁を守る
一五八〇 天正 八 信長石山本願寺と和解 加賀一向一揆勢が崩壊し始める
一五八四 天正一二 等倫坊釋正真没(二代)
一五八五 天正一三 佐々成政前田利家を攻め敗退 医王山中に逃れる
一六〇〇 慶長 五 教如越中下向 関ヶ原の戦
一六〇二 慶長 七 本願寺東西分派(教如)
一六一六 元和 二 光真坊釋玄祐没(三代)
一六二四 寛永 元 慶真坊釋門随没(四代)
一六三九 寛永一六 敬専坊釋秀山没(五代)
一六六四 寛文 四 真敬寺の寺号公称を許可
一六七〇 寛文一一 宗旨人別帳制度始まる
一六七七 延宝 七 方便法身尊像 常如 真敬寺 安置焉 願主 受誓
一六八二 天和 二 親鸞聖人御影 一如 光専寺下越中国竹内村真敬寺 願主 受誓
一六八三 天和 三 順成坊釋受誓没(六代)
一六八五 貞享 二 太子七高僧絵像 一如 願主 受誓
一六九四 元禄 七 本堂再築
一六九七 元禄一〇 興宗坊釋玄誓没(七代)
一七一八 享保 三 一如上人絵像 真如 願主 正傳
一七四〇 元文 五 直心坊釋正傳没(八代)
一七五五 宝暦 五 深廣坊釋圓空没(九代)
一八〇二 享和 二 親鸞聖人御絵伝四幅下付 願主 恵遵
一八一二 文化 九 真心坊釋慧遵没(十代)
一八二四 文政 七 浄信坊釋慧門没(十一代)
一八五五 安政 二 梵鐘求む 願主 法順
一八六八 明治 元 明治維新神仏分離令が出され廃仏毀釈運動起こる
一八七三 明治 六 土蔵焼失
一八七六 明治 九 蓮生院釋法順没(十二代)
一八八一 明治一四 義天嗣講拝命
一八八二 明治一五 本堂再築 古御堂は現在福野町円成寺へ
達如上人御影 願主 義天
一八八九 明治二二 香華院釋義天没(十三代)同日、講師拝命
一八九一 明治二四 義天講師の石碑建立
一九一九 大正 八 見真大師御影、厳如上人御影 願主 大成
一九二〇 大正 九 香温院釋大成没(十四代)
一九二二 大正一一 速往院釋恵博没(十五代)
一九三一 昭和 六 庫裡再築
一九四〇 昭和一五 鐘楼再築
一九五一 昭和二六 蓮如上人四百五十回忌法要
一九六六 昭和四一 宗祖七百回忌法要 客殿再築
一九七一 昭和四六 白雲院釋義亮没(十六代)
一九八〇 昭和五五 本堂再築百年記念法要
一九八八 昭和六三 義天講師百回忌法要
一九九五 平成 七 至心院釋義富没(十七代)